レスリー・チャンは才能あふれた貴族
by 黎小田(マイケル・ライ)
:作曲家音楽人。レスリーに提供した作曲作品:追族、情人箭、那一記耳光、縁イ分有幾多、一片痴、我走我路、闖進新領域、迷路、不怕寂寞、儂本多情、全身都是愛、一盞小明燈、我願意、痴心的我、浮生若夢、心中只有イ尓、勇者無敵、分手、可人兒、情到濃時、譲我消失去。
プロデュースアルバム:一片痴、風繼續吹、LESLIE(MONICA)、為イ尓鍾情、夏日精選-全頼有イ尓、STAND
UP、張國榮(當年情)。85及び86年の『張國榮演唱會』の音楽総監督を担当、89年の『張國榮告別楽壇演唱會』の特別ゲスト
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自分の意見を持った子供
キャピタル時代はレスリーの音楽ビジネス上の少年期といえ、マイケル・ライは彼にとって重要な啓蒙の師の一人である。二人の出逢いは1977年麗的テレビが実施したアジア歌唱コンテスト、26年前のことであるが、
しかしマイケル・ライは、初めてレスリーに会った印象はいまだ深い。そのわけはレスリーとは「わかってないなぁ」という一言の“It
dosen't make sense”(それでは意味がないんだ)で始まった理詰めで大いに争ったからだ。
「彼は第2回大会の参加者で、私はコンテストの音楽総監督だった。テストの時に彼に会ったんだが、このかっこいい子は、7分以上も有る英語の歌アメリカン・パイで参加してきた。歌は上手かったが、しかしコンテストで彼にこの曲を全部歌わせることは不可能で、短くしなければならなかったが、彼がその時私に返した答えは、"It
doesn't make sense"(無理だ)、この歌詞には起承転結があり、短くしたら意味をなさないと彼は考えていた。」
結局レスリーは3分のバージョンを歌い、第2位に入賞。
「当時の彼の歌い方は若々しく、しかし外見は既にとてもスマートだった。多分イギリス留学の影響かもしれないが、彼と話してすぐ、はっきりとした自分の意見を持っていることに気づいた。実際彼の表現力はなかなかで、日本やタイの参加者と比べても彼は特出していたが、その時の優勝者は自作曲(朦朧夜雨裡)で参加していたため、彼は第2位におわった。」
<ひよこ>から<プレスリー>へ
「歌唱コンテストで第2位になった後、まずテレビ番組に出してはどうかと話し合った。私が初めて彼の為に書いた曲はレコードになっていないが、フォン・ボウボウ主演のドラマ『追族』の主題歌だった。当時彼にはKKという名のマネージャーがいて、ポリグラムでレコードを出すよう手配し、それは全て英語曲の、しかも彼の歌い方はどちらかというと『ひよこ』的で、発売後の反響は余り良いものではなかった。」
主題歌を1曲歌い、英語曲のアルバムを1枚出したが、成果は得られず、これがレスリーの音楽過程の初期になる。マイケルは彼の連戦連敗を見ており、生計維持の為にバーで歌ったりしていたが、しかしこれは反対に、後のステージパフォーマンスの為の糧となり、堅固な基礎をつくっていった。
「彼にとっては、鍛錬の為の良い機会で、バーではライブバンドの演奏があり、ステージ下の観衆と直接対面するチャンスで、雰囲気をどのように扱うか、喝采を、拍手を受ける時、どのように対応すべきかを学んだ。」
この苦難の時代は数年で転機が訪れた。マイケルが麗的テレビを離れた時、レスリーはキャピタル・レコードに身を移した。まもなく彼は、レスリーの為に1枚目のアルバム『風繼續吹』をプロデュースした。当時としては手の込んだ作りで、レコード盤は2つのジャケットがある、収録された大部分は、映画やドラマの主題曲だった。そして、フローレンス・チャンがキャピタルに居たことも有り、彼女は日本で出版会社『大洋』とカバーの契約を行った。
80年代日本のカバー曲の人気とともに、レスリーの音楽事業は初めて輝きを見せた。「私は、彼が『I
like Dreaming』の時期、まだ自分の歌い方を見つけられてなかったんじゃないかと思う。気をつけて聞いてみると、ちょっとローマンに似てたり、ちょっとアラン・タムに似ていると感じるかと思う。キャピタル時代になってから、私は彼のキーをできるだけ低くおさえるようにし、彼の鼻に掛かった声はとても美しく、ちょっとプレスリー的で、できるだけ低く歌うだけでとてもセクシーになるんだ。」
二人は80年代に多くのすばらしい歌を創造し、どの曲も広く知られ愛好されている。マイケルは当時彼らがアルバムを製作した時の真剣さを思い起こし、現在の音楽界を嘆かずにはいられない。本当の意味で良い歌というものは姿を消し、レスリーのような良い歌手もいない。
「レスリーがまだ新人の時にはもう既に、非常に才能と音楽感覚のある歌手だった。リズム感も強く、音域も広くて、2オクターブ歌えた。どの曲も、2度聞かせれば彼は歌えるんだ。彼自身元々英語曲を歌っていたので、1つの歌の起承転結を掴むのが容易で、更には抑揚を使って感情を表現することも出来る、全て彼の長所だ。」
「レスリーと一緒にアルバムを録音する時、1箇所問題が出たとすると、即再生して聞き、彼は始めから歌い直すんだ。実際、その部分だけを歌い直せば良いんだが、彼は必ず歌の始めから歌いなおす、円滑さを保持するために。何故なら、編集するところを歌いなおすと、呼吸をする声が聞こえるからだ。当時、20曲を録り、12曲をアルバムに選んだ、だからまだアルバムになっていないレスリーの曲は6〜7曲あるが、どれも完璧でなく、発売されることは無いだろう。」
終始一貫した情義
マイケルは85年にレスリーの初コンサートをプロデュースしたが、当時彼らは、出切る限り観衆に音楽を楽しんで、レスリーを感じてもらえるよう周到な計画をした。
「私達は毎日5時に行って練習し、バンドと一緒にサウンドチェックを行い、音に違っている箇所は無いか、違っている箇所をフィードバックしてもう一度聞きなおし、歌い終わった後は毎晩夜食を食べに行き、監督、バンド、照明、歌手、皆が互いに良くなかった部分を指摘して、翌晩の進歩へとつながる。」
時は移り、レスリーは徐々に成熟し、更なる発展の為に、87年キャピタルを離れシネポリーと契約し、個人が参加する機会は増える一方、風格は更に鮮明に。その日マイケルの指導の下初コンサートを終え、最後には自らがコンサートの美術総監督となっていた。しかし「受けた恩は忘れない」ことを重視するレスリーは、終始、昔日の恩師の教えを忘れず、2000年のファイナルツアー、パッションコンサートの際にも、マイケルへ電話をし、意見を聞くことを忘れなかった。
「多分私は保守的なんだろう、あの時彼にこのコンサートは余り好きでないと正直に言ったが、我々のコンサートを見る角度は同じではない。私は、彼自身は既にある超然的な段階に到達しており、もう弄するような造型は必要ないと思っていた。只シンプルなタキシード1着で、良い歌を歌う、それで充分だと。彼は高貴で美しく優雅、このような気質は誰もが持っているものではなく、学識を持って世の中をみてこそ培われるものである。」
マイケルの言うように、オフステージのレスリーは常に高貴で上品だが、しかしステージ上のレスリーは時勢を読み、当代の観衆が求める官能刺激的な優れた声で、絶えず変化し、新しいものを創造する。最終的に2人の見方は異なっていたが、しかし、レスリーは変わらず、マイケルの中で才能有る、貴族級の歌手である。
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