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仏映画監督による、香港芸能黄金期の大スター、レスリー・チャンのドキュメンタリー作品制作への取り組み(ヴィヴィアン・チョウ記者)
ディヴィッド・マルチネス(David Martinez)監督が生涯決して忘れることのできない日が2つある。それら2つの日の間には10年の隔たりがある。
一つは1993年、カンヌ国際映画祭にて、映画監督にして評論家でもあるこのフランス人が、初めてレスリー・チャン/張國榮に出会った日。もう一つは2003年、4月のとある日、香港からの電話でチャンが死んだことを知らされ、打ちのめされた日だ。
「エイプリルフールの日だったよ。なのに、ひどく悪い冗談だった。しばらく誰も何も言えなかった。あまりにもひどい、とんでもないできごとだった」マルチネスは語る。「つらくて、レスリーの映画をしばらく見ることができなかったよ。何かが変わってしまった、何かが失われた、と感じた。歴史の1ページが終わったんだ。」
チャンが46歳でマンダリンオリエンタルホテルから飛び降りて亡くなってから3年たった今、マルチネスは、人々がこよなく敬愛する映画スターであり歌手であるこの人物について、26分間のドキュメンタリー番組の制作にあたっており、これはフランスの芸術系テレビ局Artsで放送されることになっている。
「レスリーとアニタ(梅艶芳)の二人は香港を代表する大スターだった」マルチネスは言う。「私が香港映画の素晴らしさに目覚めた時期、かつ、20年間におよぶ香港芸能産業の黄金期の、シンボルだったんだ。」
マルチネスがチャンを知ったのは、チウ・シントン(程小東)監督、ツイ・ハーク(徐克)製作による1987年のSFX伝奇アクション・ロマンの名作「A
Chinese Ghost Story/チャイニーズ・ゴースト・ストーリー)」を見たのがはじめだった。この作品は、あまたある香港映画の中でもとりわけ(ジョン・ウー(呉宇森)の「A
Better Tomorrow/男たちの挽歌」さえも凌いで)マルチネスに衝撃を与えた。それほど、目を見張るようなアクションシーンと、華々しくきらめくスターたちが素晴らしかったのだ。
その後彼は、1993年のカンヌ国際映画祭でチャンに実際に出会った。この大スターの代表作の一つ「Farewell
My Concubine/さらばわが愛 覇王別姫」が、栄誉あるパルムドールを受賞した年のことだ。そのときチャンは中国大陸の女優コン・リー(鞏俐)と一緒にいた。「コン・リーはチャン・イーモウ(張藝謀)の作品で既に有名だった。だけどレスリーはアジアの報道陣をのぞいて、ほとんど知られていなかったよ。」36歳のこのフランス人は思い出す。チャンのことを知っている西洋人は彼とその友人たちしかおらず、「なんだか奇妙だった」とマルチネスは言う。「結局彼と対談することができたんだ。レスリーが私に「君はストーカーか?」と聞くので、「私はあなたのファンです」と答えたんだ。」
マルチネスが初めてチャンを知ったきっかけは映画だったが、彼によれば、制作中のドキュメンタリーでは歌手としてのチャンの姿、そして、彼と共に仕事をしたジョン・ウー、スタンリー・クワン(關錦鵬)、ツイ・ハークといった人々のインタビューをも収録するという。マルチネスは既にウーのインタビューを撮り終えたが、その際、英語ではなく広東語で話してくれるよう頼んだのだそうだ。「彼らには香港の言葉で話してもらいたいんだ。いずれこの作品が香港で放送されたらいいと思っているんだよ。」とマルチネスは言う。彼は加えて、これらの映画監督たちにはチャンのことだけでなく、彼ら自身の成功についても語ってもらい、香港映画の黄金期について振り返りたいのだ、と言う。「この作品の内容は伝記だけではなく、香港の芸能ビジネスについてもたくさん触れるつもりだよ。」彼は加えた。
マルチネスが再びチャンに会ったのは、1997年のカンヌで、ウォン・カーウァイ(王家衛)がチャンとトニー・レオン(梁朝偉)を使った「Happy Together/ブエノスアイレス」で最優秀監督賞を獲得したときのことだ。「そのときの彼はちょっと様子がちがった。作品のテーマがホモセクシュアリティについてだったので、レスリーの発言はいつもより慎重だった。」マルチネスの印象では、レオンと比べてチャンは、常にスターそのものだった。「彼は大スター然としていた。一方トニー・レオンはひかえめで穏やかだった。」彼は言う。
マルチネスが最後にチャンに会ったのは、ダニエル・リー(李仁港)の1999年公開作品「Moonlight Express/もういちど逢いたくて 星月童話」の撮影が終了したばかりの頃だった。「レスリーは報道陣を避けていた。彼は記者と話したがらなかった。私はダニエル・リーに会いに香港にきていたわけだが、あるディナーがあって、レスリーは遅れてきた。彼は1時間ほどそこにいたが、インタビューを拒否した。彼はハッピーじゃなかったんだ。唯一楽しそうにしていたのは、彼の監督予定の作品について話すときだった・・・crazy familyについての話だと言っていた(*)。だが、資金調達が難しいんだとも言っていたよ。」
マルチネスは、チャンがハリウッドから何度もオファーをされているが、役も脚本もつまらないから全部断っているんだ、と言っていたのを覚えている。「彼は私にこう言ったよ。「僕は香港のトップスターなんだよ。わざわざハリウッドまで行って、その他大勢の一人にされた挙げ句、潰されるような真似をするわけないじゃないか。」って」
だからこそチャンは香港にとどまったのだ。「いまや、チョウ・ユンファ(周潤發)、ジャッキー・チェン(成龍)、そしてジェット・リー(李連杰)らは世界的に有名になった。だが、(レスリーとアニタを)香港から取り上げることなんてできなかったんだ。二人は香港のものなんだから。」マルチネスは語る。
映画評論家にしてジャーナリスト、そしてフランスに香港映画を配給するビデオ制作会社のメンバーでもあるマルチネスは、1990年代初期から頻繁に香港を訪ねてきた。彼は香港が好景気から不況に転落し、そしていまや再び活力を取り戻すさまをつぶさに見てきた。「1991年当時、人々は返還を怖れていたが、香港自体は狂ったように盛り上がっていた。ありとあらゆるビジネスが盛んだった。そこらじゅう、みんな走り回っていたよ。」彼は言う。「1997年から2003年の間、全てがスローダウンして、ビジネスもすたれてしまった。香港が活力を失ったことが明らかにわかったよ。だけど、2003年にまた変化がおとずれたんだ。」
「人々はとにかく止まろうとしないんだ。話さえしないんだよ。みんな、大音響と酒を求めて、こぞってディスコに行ったものだよ。」
マルチネスによれば、ある意味、不況は香港の人々にとって悪いことばかりではなかった。「人々はこの時期に余暇の過ごし方を見出したんじゃないかな。楽しむためにもっと時間を使うようになったんだ。それで今では、少し元気が戻ってきたのがわかるだろう。」彼は言う。
「レスリーとアニタ、そしてローマン・タム(羅文)が亡くなったとき、香港はどん底だった。それに加えてSARSもあった。だが、何だってどん底のあとは立ち直るんだ。」
マルチネスはドキュメンタリーをもう少し長いものにして、ムイについての内容を加えたいと考えている。なぜなら、彼女とレオン(注:Leungとありますが、Cheungの間違いでしょう)が、芸能ビジネスと香港そのものの、最も忘れえぬ一時代を代表する二人だからだ。「このドキュメンタリーは、私の香港映画へのトリビュートなのです。」彼は言う。
(*)この英文からは何の題名かなど詳細は不明。しかし1999年の夏にはクラインクインのNEWSが香港では流れていた。主演女優にカレン・モクや、出演者にチョウ・マンチクの名前などもあった。 |
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