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| 「足音が聞こえる」 −−−男らしさと女らしさ、抗いがたい魅力、こわれそうな繊細さ。様々な線で映画ファン、音楽ファンと結びつくレスリー・チャン。筆者はPhillipa Hawker。 午後10時半、蒸し暑い香港の夜、レスリー・チャンを探しながら、ネイザンロード沿いの信和中心ビルの中をうろついている。ここはいくつもの階層に分かれたアジアのオタク文化天国、モノで溢れ返らんばかりの夜の市場だ。地元映画スターのピンナップと生写真、日本製アニメの箱入りセット、海賊版DVD、広東語ポップスのCD、新発売のテレビゲーム、偽ブランド品、レアルマドリードのユニフォームにはデビッド・ベッカムの背番号。そんな商品の海に溺れて息苦しくなってくる。音と映像の氾濫と、何よりこの過剰さにめまいを覚える。またひとつ角を曲がったところに、彼がいた。何百枚も、ほんとうに何百枚もの写真。箱、ファイル、プラスチックの書類ケースにぎっしりと詰まっている。冊子、コンサートプログラム、レスリーキーホルダー、レスリーペン。夢見る少年のような表情を浮かべた一連の小さなモノクロ写真。映画のスチール。ゴシップ誌のショット。メガネをかけたレスリー。髭のレスリー。革ジャン姿。ばっちり固めたプレスリーヘア。ジャケット姿はずいぶんとなで肩。テニスラケットを持ったもの。ステージ上のもの。そのいくつかは荒々しげないでたちで、ゴルチエの白タキシードに天使の羽根が生えていたり、腰までの長さの付け毛に金色スーツがきらめいていたり。ここにも、ほらあそこにも。女の子がカウンター越しに、彼を指差し教えてくれる。まるで魔法の杖で呼び出すかのように。 レスリー・チャンは、最も輝かしく、人を惹きつけてやまない映画スターの一人だった。美しく才能豊かな俳優であり歌手だった。今年4月1日、自ら命を絶った。香港は悲しみの底にたたき落とされた。 彼の存在を知ったのは遅い方だ。90年代半ば、スクリーンデビューから20年は経っている。60本近い出演作の、まだやっと半分を観たにすぎない。男らしくも女らしくもなれ、人を魅了する何かを秘めており、でも近づくとひどい目にあわされそうで、それでいて傷つきやすく、自由奔放。彼を見てすぐにそんなことを考えた。何もしなくても生まれつき美しいのだろうけれど、決して満ち足りることを知らず、さらなる高みをいつも激しく望んでいる人だ。 表現者としての彼を知るにつけ、細部にまで目が行くようになる。自らの美貌と気品に、絶対に甘んじることのなかったその姿勢が見えてくる。レスリーは年齢不詳でもあった。80年代初めから90年代後半にかけて、一日分くらいしか老けなかったのではないだろうか。 いくつかの優れた出演作品。香港映画製作の黄金期、彼のキャリアは花ひらいた。ジョン・ウーのガンアクション、幽霊物語、切ない時代劇、芸術的名作、爆笑コメディ。雑多な要素で錯乱したような作品を撮る香港映画界の異才、王家衛とは三本作っている。陳凱歌の「覇王別姫」(カンヌ映画祭グランプリ受賞)では京劇の女形役を抱擁した。抑制と自意識と、時に溢れる感情表現がみごとに融合した演技、彼本人と役者程蝶衣はその中でひとつに溶け合った。 映画スターらしいオーラを備えた彼は、ダーク・ボガード、ジェームズ・ディーン、モンゴメリー・クリフトといった、それまでにない男らしさと脆さを体現した名優たちに模せられる。しかしながら、彼がいたのはほかでもない香港だ。例えば音楽。80年代、彼はとてつもない人気アイドル歌手であり、その歌声は未だ途切れていなかった。私も何曲かは耳にしていたし、最新のコンサートフィルムから、遊びっぽくあだっぽく冒険的とも言えそうな衣裳、立ち居振舞い、性表現を知ってもいた。ただ彼が、同性愛への敵意に事欠かぬ芸能界に生きる身でありながら、カミングアウトしていたことには最近まで気がついていなかった。だからといって、ファンは離れていきはしなかったのだ。 レスリーについて書くつもりになっていた。たぐいまれで、相反する面を持ち、見る者を誘い込むその資質を検証するものを。傷つきながらもなお魅惑的だったり、こわれそうに繊細だったり、無茶をやってみたりする芝居の一方で、すみずみに行き届く的確な注意のことを。そう考えていたら命令が下った。オーストラリア映像センターがレスリー・チャン回顧特集を組むことになり、編成担当のクレア・スチュワートから解説をサポートするよう、また同時に出版する本の製作に一緒に取り組むように請われ、二つ返事で引き受けた。そういう経緯で今ここに、信和中心にやって来ている。ファンが足しげく通いつめ、幻想の中の恋人、兄貴、アイドルの肖像を買いこんできたゆかりの場所に。これで私もレスリー聖地への巡礼を果たしたわけだが、さて見るだけ?買うのか?買ってどうする?レスリーの死は香港を打ちのめした。SARS禍の真っ最中、加えて香港人の自由を脅かしそうな法律制定をめぐる論議。そんな暗い時期だったから、彼らを襲った衝撃と悲嘆の大きさは、当事者ではない私にも明らかだった。ネット上のニュースや掲示板、間を置かず捧げられた弔辞がそれを物語っていた。 追悼記事が続いた。「タイム」のリチャード・コリスは、最も広く崇拝と賞賛を集めた20世紀末の男性版ディーヴァと彼を呼んだ。女優マギー・チャンは「カイエ・デュ・シネマ」に、いとおしむように思い出をつづった。レスリーがたったひとつの要素のために、足音を響かせるだけなのに、手を抜かず演じ切ろうとする姿を思い起こして回想は終わる。 クレアと私は、本に載せるため、彼についての短い評論や印象深い記憶を書いてくれるよう、文筆家や映画関係者に依頼した。皆それぞれ一家言持っていた。時に痛いほど強烈な思いが混じり、驚かされもした。プロデューサー兼監督の徐克は、一緒に撮るつもりだった新作について顔を合わせて話をしながら脚本を進めていた、でもそれが彼の人生最後のひと月における出来事になってしまったと哀切をこめて振り返った。陳凱歌は、真摯な言葉をすでに用意してあった。 香港で会う人々は、映画にかかわってさえいれば、皆レスリー話を持っているようだ。親友だったプロデューサー施南生(徐克夫人)は、彼のすべてについてあたたかく面白く語ってくれる。仕事には骨身を惜しまないけれども、バドミントンとなると負けず嫌いむき出しだったと。献身的なファンたちにも会った。補完し合うそれらの声。レスリーの残像、追憶の断片、情と情のつながり、ちょっとしたエピソード、溢れる思い、信じる心。私はそのひとつひとつをつぎ合わせていく。 ジョセフィーヌ、ジョイ、ドナ、キャロル。80年代からの一途なファンの面々。ジョセフィーヌはウェブサイト「www.lesliecheung.cc」の開設者だ。9月12日、彼が47歳になるはずだった日にイベントを実行したのも彼女たち。プログラムは非のうちどころのない出来で、在りし日の姿、引用文、式次第の詳細が載っている。会場はフリンジクラブ、皆が大好きなコメディ「金枝玉葉」のロケ地が選ばれた。 私達のレスリーに対する興味が、彼女たちの興味を惹いた。クレアも私も、歌より映画からファンになったと言うと驚かれた。ふと、ジョイがお気に入りの「儂本多情」を歌い始める。ひそやかに、ひたむきに。皆が徐々に唱和する。私自身のレスリー像は、他人のそれの中に結ばれてゆく。既に手遅れなことだらけだし、直の接触はもうできない。コンサートに行っていない(オーストラリアにも来ていたのに)。インタビューをしていない。街角や試写会場でひとめ見かけたこともない。 フランク・オハラは、「あのひとが逝った日」という題で、ニューヨークの街を背景にした哀悼の詩を書き残している。ビリー・ホリデイの死を報じる新聞記事に目にとめて、とあるクラブでの彼女の記憶を甦らせる場面が最後に来る。「ピアニストに向かいささやくように歌いかけ 聴衆は皆呼吸するのさえためらった」私には生の経験がない。こんな親密なライブの思い出はないし、同じ空間にいたこともない。 でも、気づいたのだけれど、ファンたちの心の中では独占欲と気前良さとが複雑にからみ合っているようだ。皆自分だけのレスリーを、大事に胸のうちにしまっている。それでいながら経験したことを分かち合ってみたくなり、そして他者の経験と記憶につながりたいと願っている。 不在こそがその存在を、かつてないほどに際立たせる。その人、その作品は消えてなくなることはない、その大切さはこれからもずっと変わりようがない、強くそう訴えかけてくる。 信和中心で、私は迷いに迷っていた。レスリーの洪水に溺れていた。大きな光沢紙のプリント一枚と、小さなモノクロ写真一枚を買い、そろりと外に出て、路上で息をついた。 −−−Days of Being Wild: The Screen Life of Leslie Cheung screens at ACMI from Thursday 30 October to Sunday 9 November 2003 フランク・オハラ (1926-1966) 米国の詩人。交通事故により死去。 ビリー・ホリデイ (1915-1959) 伝説的ジャズシンガー。名声の一方で苦難に満ちた生涯を送った。 Phillipa Hawker氏はオーストラリアの映画評論家。 |
原文: 「Listening for a footfall」(October 29, 2003) |
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