
『小川、君は僕の親友だよ』
1992年、北京庁の化粧室、国栄は部屋に入るなり「君が宋小川だね?」と言った。「君のことは聞いているよ。君が最も優秀な京劇化粧師だって。『さらば、わが愛』では君の力が必要なんだ」国栄を私に紹介してくれたのは李碧華だった。彼女は国栄に「私は宋小川の舞台を見たことがあるけど香港では素晴らしい評判だった。あなたが程蝶衣という役を演じるにあたって彼はあなたの大いなる助けとなるわ」と言っていたのだった。
正直言って、国栄に会う前に私は少し緊張していた。私は彼を賞賛に値する人物だと思ってはいたが、当時彼が香港では大変人気のあるスターであったこともあり、彼が高慢な人物なのではないかと思っていたのだ。そんな私に李碧華は言った。「大丈夫、何も心配することはないわ。国栄はとても気さくないい人よ」実際に会ってみると彼女の言葉通り、彼は本当に礼儀正しい立派な人物で、出会ったその日のうちに我々はすぐに仲良くなった。
国栄は京劇に非常に興味を持っていた。『さらば、わが愛』がクランクアップする2ヶ月前にはすでに北京入りし、京劇の勉強に励んでいた。彼は非常に勘がよく、たとえプロの京劇役者でも習得するのに半年はかかるような難しい動作や仕草を、わずか十日間のうちに物にすることができた。彼は時々私に言った。「小川、僕は前世で京劇の役者だったんだよ」と。
国栄のプロ意識は敬服すべきものだった。京劇のかつらは非常に重く、毎日7〜8時間もの間それをつけているのはプロの京劇役者でさえも苦痛を感じるものだ。休憩時間になると陳監督が彼にかつらをとるよう言ったが、国栄は大丈夫だと言った。
当時、我々はシャングリラのスイートルームに泊まっていた。国栄は奥のベッドルームを使い私はリビングに寝泊りしていたので、彼への電話やファクスは全て私が取り次いでおり、私はいわば彼のアシスタントのような役割もしていた。当時彼は寝るのが遅く、明け方の3時4時になることも珍しくなかった。我々はよくおしゃべりをし、彼は私に自分の身の上話や芸能界での経歴などを話してくれたが、彼の話からは彼が大変苦労をしてきたのだということがよくわかった。
国栄はAB型、性格的には喜怒哀楽が激しくやや頑固なところもあった。なにか一つの物事を進める際、他人の意見は充分聞くものの最終的には自分のやり方を通した。私はB型でやはりやや感情的なタイプ。過去に一度、彼と意見が合わずにちょっとした諍いになったことがある。その日は仕事が終わるとお互いに口もきかずに相手の存在を無視したが、私はとても辛かったのを覚えている。後で冷静になって考えてみたら、あの時は私が彼を誤解していたことに気づいた。国栄は演技をする際、その役になりきるために自分の全てを投入する。悲しいシーンを撮る時には前日から精神を集中させ、役に入って準備をしなければならなかったのだ。『さらば、わが愛』を撮り終えて一ヶ月たった頃、彼はまだ自分が蝶衣から抜け切れないと言っていた。今にして思えば、あの諍いの日の彼の怒りが私に向けられたものではなかったのだということがよくわかる。あの日から私はより一層彼が理解できるようになった。彼の機嫌があまりよくない時には私は何も話さない。国栄は自分がブルーな気持ちでいる時に、周りの人間があれこれ言うのを好まなかった。彼がそんな気分の時には周りの人間は彼をそっとしておく。そうすれば彼の心のしこりも時間と共に溶けてゆくのだ。
『さらば、わが愛』の打ち上げパーティの席で、我々は皆幸福な気持ちだった。国栄は酒を満たしたグラスを持って私のところに来て、敬酒をしながら私に言った。「小川、君は僕の親友だよ」と。
『僕は誠実な人間だ』
翌年、『さらば、わが愛』がフランスのカンヌ映画祭で大賞を受賞した。受賞の当日、国栄は私に電話をくれた。「小川、君は僕の恩人だよ。君の化粧がなかったら僕はあんなにきれいには見えなかっただろう」と言った。私は言った。「違うよ、国栄。あれは君の土台がいいからさ。君のその顔がなけりゃ僕だってあんなに美しくは描けなかったさ」と。今も思い出すと・・・・・
フランスから香港に戻ると、国栄は私と張曼玲先生、そのご主人である史燕生先生(『さらば、わが愛』の京劇指導の先生方)を香港へ招待してくれた。正直言って、私はこんな日が来ようとは思ってもいなかった。だって映画のスタッフというものは映画を撮り終えれば解散してしまうのが普通だろう?
香港に着くと国栄は言った。「小川、僕は誠実な人間だよ。君が僕にしてくれたことに対してきちんと報いたいんだ」 この時の香港の旅では林青霞(ブリジット・リン)の言った。「小川、張国栄のことをきちんと憶えているのよ。香港の芸能界で彼のように誠実な人間はそう多くはいないわ」という言葉も深く印象に残っている。
国栄の39歳の誕生日、彼はまた我々を香港に招待してくれた。あの頃の国栄はとてもハッピーな状態で、全身がやる気と自信に満ち溢れていた。彼の最も輝ける時だった。
あの頃の数年、国栄はよく中国に来ていた。ある時、国栄が沢山の友達と私の家に遊びに来たことがある。皆で床に座り、蝋燭を灯して彼のCDを聴いた。国栄は私にどの歌が一番好きかと聞き、私が「寂莫夜晩」だと答えると北京語版を聴いたことがあるかと尋ねた。私がないと答えると、彼は私達のために歌って聴かせてくれた。
国栄の声質はハスキーで低音だが、彼は本当に魂をこめて歌を歌っていた。彼は一曲歌うごとに一つのストーリーを思い起こせると言っていた。その前年の中国本土のコンサートで私は国栄と一緒に各地を回ったが、コンサートが終わると彼は毎回私に感想を聞いた。私は言った。「国栄、お世辞ぬきに君は本物のアーティストだよ。君の動作の一つ一つは君自身を表現してるし、眼はストーリーを語ってるもの」
国栄は京劇を見るのが好きだった。一度、北京に私の舞台を見に来たことがあるが、その時はファンの半分が彼をめがけて殺到し大変な騒ぎになった。舞台が終わると国栄は私に言った。「小川、この仕事をやめちゃダメだよ。君はこの仕事をするために生まれてきた人間だ」彼のこの言葉は私を非常に感動させた。
国栄はたまに感情的になることもあったが、他人に対して非常に理解のある人間だった。彼は自分がかつて愛に飢えていたと思っており、だからこそ他人にはぬくもりを与えられる人間であろうとしていた。毎回電話をくれるたびに「小川、元気かい?お父さんとお母さんはどう?張先生と史先生は?」と尋ねた。ある時、史先生が胆嚢癌だということを伝えると、彼は絶対に会いに行くと言った。史先生は武将を演じる役者であり非常に強い人だった。国栄が先生のお宅に行ったその日、先生が、人前では決して涙を見せたことのない強い先生が、泣いた・・・・・
『国栄と唐氏は深く結ばれていた』
国栄は私より4歳年上だったこともあり、人間として他人には誠実で寛容であるようにと常々諭してくれた。彼のこの言葉を考えてみても、彼が自殺をするなんて考えられない。メディアの中には彼の自殺の原因を愛情問題のもつれとするものもあったが、私はそうは思わない。国栄と唐氏の愛は深く、もしそうでければ彼が遺書の中に唐氏への感謝の言葉を書くことはなかっただろう。
私が初めて唐氏と会ったのは『さらばわが愛』を撮っていた時だった。撮影中の国栄を唐氏が訪ねて来たのだが、彼はとてもおとなしく言葉少なな青年だった。国栄は彼をとても可愛がっており、年齢が唐氏よりも上ということもあってか、生活全般において彼のことをとてもよく面倒みていた。今年の春節前に国栄が北京に来たときにも唐氏が一緒だった。国栄は十年前と変わりなく唐氏にやさしく、疲れていないか、休みたくないかなどと常に気にかけていた。その様子からはメディアが言うような「別れ」というものは微塵も感じられなかった。あのような親密さというものは決して装えるものではなく非常に自然なものだった。
国栄は自分の人生に正直で、他人の前で自分のプライベートなことを話すようなことは決してなかった。また、他人があれこれ言うことも気にかけなかったが、香港のパパラッチの行動にはいつも心を痛めており、過去にはパパラッチを避けようとして自動車事故を起こしそうになったこともあった。こうしたことは少なからず二人の気持ちに影響していただろうとは思うが、二人の18年にもわたる愛情を壊すまでには至ってはいないはずだ。
『小川、僕は憂鬱だ』
原因があるとすれば、それは『偸心』から始まっていると思う。
去年の春、国栄から電話があった。「小川、僕は今北京にいるよ。すごく忙しいんだ。『偸心』という映画を撮るつもりなんだ。今全国を回ってキャストを選んでいるところだよ」数日後、国栄の誘いで一緒に食事をしたが、『偸心』の話になると国栄は非常に興奮し、その様子からは彼の熱いやる気が感じられた。食事の後、皆でゲームをし、その日は非常に愉快に遊んだ。
しばらくしてまた国栄から電話があった。「小川、僕は落ち込んでる。今香港じゃないんだ」
と言ったきり多くを語らなかった。後で国栄の香港の友人が北京に来たとき、私は『偸心』がダメになったことを知った。国栄はどんなに辛かったろう。私に電話をくれたとき、彼は気持ちを紛らわすために外国に出かけていたのだった。
私は国栄をよくわかっている。彼は非常に強く、面子を大切にする人間だった。あの頃、メディアはすでに宣伝を始めており、多くの人が張国栄が監督としてメガホンをとることを知っていた。北京にキャストを選ぶために来て一日に何百人もの面接をこなし、しかも沈殿霞、寧静、胡軍といったメインキャストはすでに決定していた。それが突然全てダメになるなんて、彼は皆にいったいどう説明したらよかったのだろう。
国栄は私に言ったことがある。「小川、僕の人生で最大の願いは一作の素晴らしい作品を撮ることだよ」と。「『偸心』は僕の処女作だ。絶対に成功させなきゃならないんだ」この言葉からも彼がどんなにこの映画のことを考えていたかよくわかる。国栄はビジネスタイプの人間だ。彼の人生にはしっかりとしたプランがあった。今年はこれをして、来年はあれを….というように常に明確な目標があり、年をとったら監督に転向したいということも以前から言っていた。この『偸心』の事件が彼にとっていかに大きな打撃だったかということは、この事件の前後で国栄の情緒が激しく変化していることからもよくわかる。
去年の秋、上海で国栄に会ったとき、スターはただの人となっていた。それ以前に彼に会ったときは、彼はいつも楽しそうでカラオケを愛し、いつも冗談を言っては皆を笑わせていたのに、あの時の彼は寡黙だった。皆が新しい話題で盛り上がっていても話題に加わろうとはせずに非常に沈んでいるように見え、また抜け毛の状況もひどいようだった。あの頃新聞で彼が躁鬱病にかかっているとのニュースも目にしたが、本人に直接聞くことはできなかった。
今年の春節前、国栄は北京に来ており、私に電話をくれて食事に誘った。その日は唐氏の他にも大勢の友人が一緒だった。国栄は私を見ると昔と同じように親しげに駆け寄ってきて「小川、僕の隣に座って。一緒に話そう」と言ったが、男女取り混ぜてあまりに大勢の人が同席していたため深い話はできなかった。昔なら国栄と私の間に話せないことなど何もなかったのに、あの日は違った。おしゃべりはお互いの立場をわきまえた差しさわりの無い世間話に終始し、12時になる前に国栄は部屋に引き上げて行った。
数日たった午後、国栄は私に二度電話をくれた。その時私は稽古中で携帯のベルの音は京劇の銅鑼の響きにかき消されて聞こえなかった。あとで彼にかけ直したときには電話はすでに通じず、自宅の電話にも誰かが出ることはなかった。今から思うと、あの日彼には何か言いたいことがあったのに違いない。もしあの時、我々がきちんと話ができていたら、或いは彼の心の苦悶も少しは楽になっていたのだろうか。今となってはすべて遅いが・・・・
『僕は寂しさが怖い』
国栄はとても強い人間だ。過去の苦労も辛かったこともみな乗り越えてきたのに、いったいどうしてこんなことになってしまったんだろう?
昔、国栄は私に言ったことがある。「小川、僕は寂しさが怖いんだよ。ひっそりと寂しさの中に身をおいていると、いろいろなことを思い出してしまうんだ」私は国栄をよくわかっている。彼はまた傷つきやすい人間でもあった。『偸心』のトラブルは彼をひどく落ち込ませたに違いない。そこから始まった近頃の仕事の不調、日々老いゆく自分、パパラッチに追い掛け回される日々の中で追い詰められてゆく愛。
国栄は高所恐怖症だった。もしあの時、ほんの一瞬思いとどまることができたら・・・・
生前、国栄はよく言っていた。人を愛するには力が必要だと。国栄は寂しがりやでぬくもりに飢えており、いつも周りの人が自分の傍にいてくれることを望んでいた。それなのに彼は我々を残し、一人で去ってしまった。こんなにも皆を悲しませながら。あの世で国栄は寂しくしてはいないだろうか? 我々残された者の愛、そして彼を懐かしむ気持ちが国栄のもとに届き彼を暖かく包んでくれることを私は願ってやまない。
|
|