張國榮が陳凱歌の「覇王別姫」に出演した際、成都出身の俳優雷漢と共演したことがある。この映画の中で程蝶衣の弟子である小四を演じた雷漢は、本誌記者のインタビューに対し一頻り張國榮の死を惜しんだあと、次のように語った。
「『覇王別姫』を撮っていた時には、張國榮の性格に鬱の傾向があったり、孤独癖があるようには全く見えなかった。彼は本当にパーフェクトといってもいいほどの人間だった! こんなことになるなんて、本当に辛くてたまらないことがあったんだと思うよ」
敬業一個鏡頭拍30遍
「覇王別姫」を撮影していた頃、張國榮は出演キャストの中では最も大物スターだったが、雷漢の記憶の中では、当時のキャストの中で彼ほど徹底したプロ意識を持っていた俳優はいない。 「張國榮が虞姫を舞台で演じるあるシーンで、我々は同時録音という方法を使っていたんだ。当時、張國榮の普通話(北京語)はまだあまり上手いとは言えず、彼は舞台の上で何度も何度も唱っていた。何度目かの後、監督はOKを出したんだけど、張國榮は自分にまだ不満で、結局はこのシーンを30数回も撮って、彼はやっと満足して舞台から降りてきたんだ」
それだけでなく、張國榮は台本の準備にも一分の怠りもなかった。台詞を忘れてしまうのは役者の常だが、張國榮がカメラの前に立つときにはそのようなことは決してなかった。
「撮影時の自分に対する要求に対しては、監督よりも厳しかったね」
謙虚配戯不厭其煩
「覇王別姫」の撮影が行われていたのは1992年のことだが、当時張國榮はすでに有名な大スターであり、それに比べたら張豊穀、蒋文麗、葛優などはまだ小物だった。
しかし、張國榮の皆に対する態度は大スターとしての驕りなどどこにもなかった。雷漢の言うところによれば、張國榮は群集を演じるエキストラの一人に対してさえ居丈高になることはなかった。 「彼はどうやってやったらいいかだけを教え、あとは親身になって協力してくれたよ」と雷漢は当時を振り返るように続けた。それは、小四と蝶衣の壮絶な別れのシーンでのことだった。「もうこれからはそれぞれの道を行こう!」と言う台詞を言わなければならなかった雷漢だが、どちらかといえば柔らかい性格である彼には この時の小四の屈折した心理がどうしてもうまく表現できなかった。焦るあまり、冷や汗までかいていた雷漢に張國榮が駆け寄って来て慰め、「僕の性格も本当は柔らかい方だよ。だけどこの場面には一種の爆発力が必要だね」そう言うと、実際にその場面の演技をやって見せてくれ、雷漢は無事にこのシーンを撮り終えることができた。 また、ファンが張國榮を取り囲んでサインを求めた時など、張國榮は雷漢や張豊穀を前に押し出すようにして、「君たちはこの人達を探さなくちゃ。彼らは中国の素晴らしい俳優なんだからね」と言った。
親和簽名来者不拒
当時、撮影現場には毎日のようにファンが訪ねて来て、張國榮にサインや記念撮影をねだったが、彼がこれを拒むことは決してなかった。「ある日、何人かのファンが張國榮を訪ねて来てね。サインが欲しかったらしいんだけど、どうしても言い出せずに長いこと撮影所の周りをうろうろしてたんだ。張國榮はこれに気付くと、自分から声をかけて彼女達の所に行き、サインだけでなく一緒に写真まで撮ってあげたんだ。ファン達は驚いてたよ」
張國榮は芝居の相手役にも細かく気を遣っていた。程蝶衣が小四を鞭で打つシーンでは、撮影が終わるとすぐに雷漢に駆け寄り、怪我がないかどうか確かめてくれた。
「あんなに気配りをする大スターなんて見たことないよ!」
真誠従無特殊要求
また、雷漢は「覇王別姫」の撮影時、張國榮は唐氏と自分のことを特に隠さなかったという。「唐氏の話をする時には、いつも自然で正直だったよ」張國榮は一緒に仕事をする仲間達にも誠意を持って接していた。当時、中国本土の俳優は撮影所の宿舎に寝泊りし、張國榮はシャングリラホテルに滞在していたが、「彼はよくみんなに夜食を奢ってくれたよ。撮影のない日には、みんなを食事に連れ出してくれた。食べ終わると伝票を奪うようにしてお金を払いに行くんだ」 いつもは、張國榮も皆と同じように三種類のおかずだけが入った弁当をしゃがんで食べ、特別な要求は何ら出さなかった。また、彼らのように一度しか共演したことのない俳優のこともよく憶えていてくれて、1998年「追憶の上海」の宣伝で成都に来た時には、雷漢に電話をかけ食事に誘ってくれた。その後、上海でコンサートをした時にも、雷漢達中国本土の俳優を招待するのを忘れなかったという。
|
|