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「覇王別姫」「風月」の執行導演をした

張進戦
『彼との最後の対面』



 最後に彼と会ったのは去年の北京。彼と覇王別姫の脚本家である李碧華がいっしょにやって来た。張国栄が自分で監督をする映画の合作の話し合いに。私たちの関係はとてもうまくいっていた。かつて彼といっしょにやったときにはとても楽しく、彼は私に手伝わせたがっていた。しかし、私はそのときすでに別の契約(・・・・等との合作ハリウッド映画)をしていた。このため、張国栄も私もとても残念がった。彼は冗談で、「僕がこんな遠くからやってきたのに、その上、監督第一作だというのに、あなたは手伝わないって」。最後には「気にしない、気にしない。次回は必ずいっしょに、ね」と言った。私も「必ず」と答えた。あとで、去年のその映画がいろいろな原因で撮れなくなったが、今年、張国栄は別の映画を準備していると聞き、私も彼との合作をとても楽しみにしていた。まさか、こんなことになろうとは。

 事件のあと、私もいくつかの報道を目にした。すべてが情の問題で自殺したと報じていたが、私はそうは思わない。私は、彼が残したいわゆる”遺書”のいくつかの言葉だけではその原因を説明するには不十分だと感じている。こんなにも長い間、彼は恋愛ではいろいろなことを経験しているのだから、この方面のことが原因だとしても小さな一部分でしかないと思っている。最終的な原因はやはり仕事上のことではないのだろうか? 張国栄はとても強い人だったし、心も豊かな人だった。彼と知り合ってから現在まで、彼は仕事にとてもこだわりがあり、多くのアイデアをもち、一般的な香港の俳優とは明らかに違っていた。覇王別姫一作品だけでもこのことは分かる。彼を形容するに”敬業”(仕事一筋)という簡単な二文字だけではほど遠い。仕事のことからだけではなく、そのほかのいろいろなことが原因で今日の結末となったのだろうが、彼は本当に覇王別姫の中の程蝶衣にそっくりだ。

 彼は芸術をとても追及する人だった。全身全霊で役作りに打ち込んだこと、これはどの俳優も学ぶべきだ。芸術家としても恥じることのない人だ。しかし、彼が費やしたものと彼が栄誉の上で得たものとは比例しなかった。彼に対する評価が最高の域に達することはなかった。客観的に見て、こうしたことがここ数年の彼の憂鬱の原因だったのではないか、いやもしかしたらとても重要な原因だったのかもしれない。張国栄は条件は備えていたし、力量も到達していたけれども、大いに稼いで、最高峰に上り詰めるということはなかった。しかし、個人で決められることは少ない。彼の心の中にはきっと残念な思いがあっただろう。どんな場所でもそうした思いを表明することはなかったが。たとえば、覇王別姫は彼の演技人生の一里塚となったし、彼の演技は各種の賞を取るのに十分なものであったけれど、そうはならなかった。張国栄がいなかったら、覇王別姫はなかったと言うことができる。彼のほかに、程蝶衣を演じることのできる俳優は中国にはいない。
 
 風月を撮影するとき、我々はフランスにいて、覇王別姫の放映のあとだったのでメディアが取材しにきたのをおぼえている。コン・リーの部屋の中も外も各国の記者がひしめきあっていたが、対照的に張国栄の部屋にはただ数人の香港の記者がいただけだった。私はその場に行かなかった。そのとき、私は何か強烈な感覚を覚えた。かわいそうだと思った。この一幕を見たくはなかったし、そんなときに入って、張国栄に耐え難い思いをさせたくはなかった。毎回の撮影の過程で、彼はものすごい努力をしていたし、非常にできもよかった。しかし、非常に不公平なことだが、外の反応はそれに応えることはなかった。

 彼の最後の選択は彼の心の中の危機感と大きく関係していたはずだ。畢竟、彼も46歳。彼は時間がもうあまりない、青春は去ろうとしていると感じていた。これはとても残酷なことだ。彼が監督をやろうと思ったのも自分自身への、脚本への、役柄への不満からだ。自分に合う役柄を探し求めようとしていたのだ。これらのことは、すべて同じ芸術家としての想像にすぎはしないが。あの世の張国栄が同意しているかどうかは分からない。彼の芸術における失望が積み重なって自分自身を打ち砕いてしまったのだと思う。そのほかのことでは彼をあんな風にすることはできない! 彼は弱い人ではないし、心の狭い人でもない。”恋愛問題で苦しんで”なんて、彼を過小評価しすぎている。

 実は、最初は程蝶衣の役は「ラストエンペラー」のジョン・ローンに決めていたのだが、契約上の問題で、張国栄に変えた。当時、張国栄のスケジュールはこんでいたが、彼は相当な犠牲を払って、覇王別姫の撮影隊に参加してくれた。彼が来てから、中心となる人間何人かで梅蘭芳先生の墓参りに出かけた。みんな初めて彼に会って、見た目の感じが役柄にとても近いこと、そしてとてもいい人だと思った。そののち、彼は撮影隊に来るたびにみんなとうまくやり、えらそうなところは微塵もなかった。陳凱歌、コン・リー、張豊毅、葛優はみんなうちとけていたが、張国栄はどの人にもとても気を使い、それはスタッフにも同様だった。

 撮影の過程で、彼はものすごく努力していた。毎日練習を重ね、役柄を研究し、せりふや形体について京劇の先生に教えを請い、しかも、できるだけスタントマンを使わなかった。中でも、せりふに関してとてもまじめに取り組んでいた。当時、彼のせりふにはとても香港なまりがあったから。最後に彼に会ったときには、彼は香港の大スターの中で普通語を一番きれいに話す役者となっていたが・・・。彼は毎日、撮影の前にとても長い時間せりふの練習をしてきた。しかも、毎回、スタートする前に、私のところへやってきて、小声で「一度せりふを言うから何か問題があるかどうか聞いてみて」と言い、小声で一度せりふを聞かせる。私がどこの発音が間違っているか言うと、彼はすぐに直し、それからカメラの前へ行った。みんなが張国栄の人柄と演技にとても感心していたし、彼といっしょにやることをとても喜んでいた。彼はあまり知らない人の前では話したがらなかったが、よく知っている人といっしょのときには、かなり話し好きだった。

 当時は、香港のスターが大陸と合作するようになったばかりの時期で、1991年以前は、私もほかの多くの監督も、役者もみんな香港の役者と大陸の役者では大きな違いがあり、距離もあると思っていたので、張国栄に会って、はじめて敬服した。彼は香港に帰る前の日、シャングリラで撮影隊のみんなに食事をおごった。彼はとても感激していて、お酒をものすごく飲み-彼は酒をたしなむ人ではなかったし。気性もオーソドックスだったけれども、感受性はとても豊かだった-酔っ払った。見た目は静かで上品であるが、実際は強く激しい人だった。そのことは彼の最後の選択でも明らかだ。二十何階の窓から飛び降りるなんて、どれほどの度胸と勇気がいることだろう。

 彼は自分の育ちについてはほとんど話さなかったが、我々はその日、それをおぼろげながら見てしまった。彼は酔っ払ったあと、徐楓のアメリカから帰ったばかりの息子を叱っていた。彼はとても怒っていて、こう言った。「君のおとうさんもおかあさんも君を苦労のないように生活させるのは大変だったんだよ。撮影の時には、みんな熱い太陽の下で仕事をしているのに、君はああだこうだと、熱くてがまんできないなんて文句を言う。小さいときから、こんなことぐらい我慢できないで、これがダメ、あれもダメなんて言っていると、何も成就することはできないよ!」これらの録画を私はまだ持っているんだ。そのとき、我々は張国栄の少しも世慣れた感じのしない、素直な一面を見た。その日から徐楓の子どもの教育をしていた。私は張国栄がとても真面目で純粋な人であることを知っている。

 今、私が張国栄に対して言いたいことは、中国映画界の仲間の評価および観衆の心の中に残された印象は彼の期待通りのものだということ。


彼はみんなの記憶の中で活躍し続けるだろうし、このことで私も慰められる。





最初、チェン・カイコー監督の文章として掲載しておりましたが
間違っておりました。訂正してお詫び申し上げます。


出典:『ET衛視周刊』の特集、『再見張國榮』に掲載


(Sさん訳、旭妹提供)









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