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信報 (7/4/2003)掲載追悼文

我們的時代-悼張國榮-
梁款 (文化評論員)



 哥哥がこの世を去った晩、「信報」の友人が電話をかけてきた。彼女はツイ・ハークは悲嘆にくれ、レオン・カーフェイは何も話すことができなくなっていると言い、テレビでは肥姐が悲しみのあまり慟哭していた。あの夜、私の友人達は同じように動揺しながら互いに連絡を取り合っていた。彼女達は皆哥哥とは面識がなかったが、気持ちは皆同じようにかつてないほどに落ち込んでいた。妻は私に、皆が必死になって生きようとしている今日、なんで哥哥は死んでしまったの?あまりに辛すぎるわ・・と言った。私は彼女にあまり落ち込むなよと言って電話を切ったが、受話器を持った自分の手は小刻みに震えていた。あの晩、私は次の二つのことを確信するに至った。

一、 我々の世代の香港人は、いわば「我々の時代」とも呼べる世界でたったひとつの
   時代を共有している

二、 我々の時代は今まさに正式に終わりを告げ、新しい時代がよろよろと
   よろめきながら生まれようとしている。香港人は躓きながらゆっくりと歩まねばなるまい。


張國榮

 張國榮はまさに我々の時代の代表であったが、この事実は私が最近になって次第に気付いたことだ。私の家には彼の3枚のCDがあるだけなので、私は彼の熱烈なファンだとはいえない。正直言って、1977年に白い衣装で全身を身に包んだ若者が大胆にも私のアイドルDonMacleanのAmerican Pieを歌ってコンテストに参加した時には、これは絶対に間違っていると思ったほどだった。21歳の張國榮は非常にハンサムではあったが、少々女性的であまりに大胆すぎた。音量をしぼると、多くの人の影は見えるものの自分のスタイルというものをもっていないように見えた。この頃の日々、彼はあまりパッとせず、コンサートで投げた帽子を返されたというが、私はそれを聞いても不思議には思わなかった。

 張國榮に対する見方の変化は1982年のパトリック・タム監督の「烈火青春」から始まる。今にして思えば、あのわずかな憂鬱を湛えたような傲慢さ、そして、普段は自分の内に籠りながらながらも時として激しく感情を爆発させるような人物こそが張國榮の本当の姿に近かったのではないだろうかと思う(この姿は「欲望の翼」の中でも余すことなく発揮されている)。まもなく張國榮は「風継続吹」を歌い、MONICAと巡り会い、紅館をSTAND UPで湧かせ、私は次第に彼を取り巻く光を感じ始めた。この時期の張國榮は歌のうまさでは林子祥に敵わず、演技では周潤發に及ばなかった。しかし彼には阿Lamや發仔にはない独特の何かがあった。それは声の中に潜み、踊る姿に纏わりつき、よせた眉根に妖しさ、傲慢さ、気まぐれ、憂いとなって現われ、彼の周りには、まるで真っ白な薔薇の蕾が咲きほころびるときのような優雅な香りと気品が漂っていた。陳淑奕は哥哥の魅力はその手や足の動きの一つ一つにあると言い、肥肥は彼には尽きることの無いスタークオリティがあると言ったが、私もまったくその通りだと思う。常に新しいものを求め、またそれを自分で創り上げようとする努力は、ついに彼にスターとしての魅力を爆発させた。張國榮が履いたスカートに意見をした連中だって、本当は彼が次にウィッグをつけるのを首を長くして待っていたのだ。

 あの頃の私は阿Lam(林子祥)のファンだったが、我々世代の香港人の「本当の声」とも呼べるべきものは哥哥なのではないかと思い始めていた。哥哥の声には幾つかの特徴がある。音域は決して広くない。だが、その範囲内では100%の磁性を誇り、それは彼がバラードを歌うときに最も発揮され、バラードを歌わせれば彼の右に出る者はいなかった。日本の芸能人を真似ることから始まった彼のパフォーマンスは、最終的には地球上の全華人のティストとなって彼らを征服するに到ったのだった。この声が社会を語ることはなかったが、社会の方では喜んでこの声を受け入れた。80年代、張國榮はトップスターだった。哥哥の自信は香港人の自信と重なり合い、彼の音楽は普通の人々の「バックグランドミュージック」となった。梁文道は哥哥のパフォーマンスがあまりに過激だという理由で哥哥を好きではなかったが、その彼でさえ放課後に公園でたむろしていた頃には張國榮の歌を口ずさんでいたことを認めないわけにはいかない。今、私の友人達は皆哥哥の為に涙を流し悲嘆に暮れているが、それは彼らが哥哥の音楽の中に自分自身の姿を見るからだ。


我々の時代

 これらのことから、私が張國榮に対して持っている感覚は、先入観からの拒絶に始まり理解してから好きになるという点において林奕華が言っていることに似ているかもしれない。張國榮を知って間もない頃、私は張國榮にはルーツがなく、軽薄でただのブリっ子だと思っていたが、後になって哥哥には彼独自の風格と気概があり、周囲の人間には情を持って尽くし、自分のこだわりに関しては正義を持って貫く人だと思うようになった。彼はルーツがないがゆえの他人に与える軽薄な印象から逃げようともせず、超人的な努力によって思いっきり自分を高めたのだ。彼は外国の一流の映画評論家を驚嘆させるほどの演技をするようになり、Jean Paul Gaultierが彼のための衣装を創るほどの身となった。香港が一代かけて成し遂げた成功は哥哥の上に体現され、哥哥の輝ける時代は即ち我々の輝ける時代でもあった。惜しいことに、この時間はあまりに短かった。あとになって私は我々の時代が純粋に偶然に属していたということを知る。この時代はまさに今終わろうとしていたのだ。哥哥の気概、香港の炎はまるで虹のようだった。

 かつての共産党と国民党の関係により、80年代以前、海を挟んだ両岸(中国と台湾)は演芸文化という面において長期にわたって酸欠状態に陥っていた。そのために全世界の華人の文学、映画、音楽という分野には非常に大きな真空空間が生じていたが、この飢餓状態が相当なものであったことは、彼らがタム校長(アラン・タム)にさえ狂喜したことで証明できよう。その後、戦後の経済発展と労働力の移転に伴ない、音楽産業がこの小さい島にやってきた。香港の一般市民は経済の繁栄と未曾有の好景気を経験することになる。哥哥がデビューした頃は、世界の5代レコード会社が新しい市場を開拓しようと香港に支社を開き始めたときであり、この世代の芸能人はお金を稼げるだけでなく芸能界全体のレベルアップに貢献できるという時代だった。この時代に我々が張國榮に巡り会えたということは、一種の歴史的幸運といえるだろう。

 哥哥がこの世を去る少し前に世界は変わり始めていた。数週間前、私は芸能界の重鎮ともいえるべき人々の何人かにインタビューする機会があったが、彼らの眼の中には去り行く時代への執着がありありと見え、それは来たる時代への失望を痛切に感じさせた。私が「香港の創意工業の前途はどうでしょう?」と問うと「経済は衰退し工場は移転、人才は貧困になる。私には先が見えないね」という答が返ってきた。更に「香港からは第二のサムやレスリーとなるような人物が出てきますかね?」と尋ねると答は・・・・・(長い長い沈黙)だった。インタビューの間中、私を含めた誰もがマスクをしていた。そう、これが我々の新しい時代なのだ。哥哥の時代、我々は七分の曖昧さに三分の幸運があれば光を放つことができた。だが、哥哥の去った時代は七分の結構転型に三分の悪運が加わった。我々は袋小路へと追いつめられたのだ。哥哥はこの世を去る前夜、マージャンテーブルに座りながら特区政府の肺炎危機処理の甘さを大いに批判していたと聞くが、まさにこの時、我々の二つの時代は正式にバトンタッチされたのだ。


風継続吹

 新しい時代に可能性が全くないわけではない。経済は初めからやり直しになるだろうし、文化が実を結ぶのは果てしなく先の話だろう。だが、私には多くの人が大地を踏みしめ堅実にやっていこうとしているのが見える。彼らはバランスを失った政府に何も求めず、荷が重過ぎて疲れ果てた専門家をこれ以上疲れさせないよう、民間の相互扶助によって社会を築こうと力を合わせている。この新しい時代、可愛らしさは輝きを失った。我々は歯を食いしばって一歩ずつ歩んでいかなければならないのだ。未来は厳しい闘いになるだろう。我々は装備を整え守りを固めなければならない。だが、今このひととき、私はただひたすらに深い悲しみと寂しさを覚えている。悲しみ、それは一人の素晴らしい人間を失ってしまったがゆえに。寂しさ、それは一つの時代を失ってしまったがゆえの。


哥哥は遠きへと去り そして風は吹き続ける。


梁款(評論家) 2003年4月7日


日本語訳:小蘭


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